
ホームボーリング
昭和46年(1971)/バンダイ

超のつく本格派
昭和46年(1971)にバンダイから発売された本機はプラスチック製で全長130cm、レーン99cm大型サイズ。



二分割されたレーンを裏から接合部品で連結させる仕組み。
レーンにはもちろん板目やスパットも描かれていて気分はボウリング場。
後述するが精巧極まりないピンセッターといい、リアルな投球人形といい、まさに「超」のつく本格的ボウリングゲームと呼んで差し支えないだろう。
商品外箱に「卓上ボーリングのエース!!」と誇らしげに謳われているだけのことはある。

空前絶後のピンセッター
本機最大の特長はなんといってもそのピンセッターにある。

投球人形手前左にあるハンドルを回すと、レーン裏に仕込まれたレバーが回転、それが奥にある歯車仕掛けのダイヤルピンセッターを制御するという、まあ凝りに凝った仕組みだ。
1,ハンドルをグルグル回すとピンセッターが動き始め、やがてベルが1回チンと鳴る。
2,プレイヤーはそこで手を止めて10本のピンを上からセットする。
3,さらにハンドルを回すとピンセッターが上昇し、2度目のベルが鳴ったところで準備完了。

4,1投目終了後にハンドルを回すといよいよスウィーパーの出番、おもむろに倒れたピンを後方に払い、残ったピンだけを再びセットする。
5,このとき二度目の「チン」でボールが戻ってくるオートリターン機能まで付いている、なんとまあリアルな。

男前ミスターレッド
投球人形も負けてはいない。
上下とも赤で揃え、いかつい顔を緊張でいっそうこわばらせつつ、本物のプロボウラーさながら、右手を大きく振りかぶってボールをリリースするのには驚いた。
ピンセッター同様、この投球人形の形状、及びその投球動作においても、リアリティという点で本機の右に出るものを筆者は知らない。

ボウリング場ごっこ
そんな完全無欠とも言える本機だが、実際に遊んでみると意外な盲点に気づく。
本物のボウリング場と同様、ピンセッターがピンのすぐ上にあるので、周囲からはピンが見えにくいのだ。
テレビのボウリング中継のように、正面からで見ればピンが何本倒れ、何本残っているかは目視確認できる。
しかし、レーンに沿うようにその左右に座り、投球の順番を待つプレイヤーの視点では、それがほとんどわからない。
家族や友人たちとスコアを競う卓上ボーリングゲームにおいては、対戦者の投球でピンが何本倒れたのかが参加者全員からはっきりと見えなければ、ゲームの面白味や臨場感は少なからず減ぜられてしまうのは間違いない。
したがって極論すれば、本機は気の合った仲間と手軽にボウリングゲームを楽しむというよりは、むしろ1人で「リアルなボウリング場ごっこ」に没入べき1台と言えなくもなかろう。
と、ここで一つ素朴な疑問が湧く。
いくら昭和46年(1971)当時、玩具業界をリードしていた大メーカー・バンダイといえども、このように複雑なピンセッター機能を持つ超・本格的ボウリングゲームを、いかにして作り得たのか?
タネ明かしししよう。
本機は遅くとも1962年にはアメリカで発売されていた、Eldon Bowl -A- Matic という名のボウリングゲームが(恐らくは)バンダイにOEM供給されたものだ。
海外コレクターのWebサイトには次のように紹介されている(抜粋)。
「この唯一無二のゲームは1962年11月に栄えある"今年の玩具賞"を受賞している」
さらに同ページでは本機の特許関連書類も紹介している(どこの国にも同じようなコレクターがいるものだと苦笑)。
ちなみに発売元のEldon Industriesはかつてカリフォルニア州に本社があった玩具会社だが、現存するかは不明。




「疲れに1本!エスカップ」
■2024.12.03追記:
実はこのホームボーリングには何とも奇妙な別バージョンが存在する。
スウィーパーの正面に「疲れに1本!エスカップ」の文字。
その1点以外は通常商品と何ら変わらない。
さらにほぼ名刺大の三つ折りカードが赤い紙袋に収納されていて、 中を開くとスコアのつけ方や投球法の図解が示されている。
そしてカード表紙の右上にはS.CUP(エスカップ?)の文字、 右下には商品写真とともに「疲れに1本!エスカップ」のロゴが躍る。
これはいったい、どのような性質の機種なのであろうか?
可能性が高いのは次の2パターンのうちいずれか。
■エスカップの懸賞当選品
■単なるエスカップの広告出稿
いずれも確証がないのでどちらと断定することはできないが、 懸賞にしろ広告出稿にしろ、本機が世に出た昭和46年(1971)当時のボウリングブームがいかに凄まじいものだったかが察せられよう。
この年は曜日ごとに異なる民放各局がゴールデンタイムにボウリング中継を放映、軒並み高視聴率を叩きだしていた。
となると、エスカップの当時の発売元・エスエス製薬としては、テレビの人気ボウリング番組のスポンサーはさすがに荷が重いので、せめて当時のボウリングゲームの最高峰たる本機に広告を出稿した-仮にこれが本当だったとしても、決して一笑に付すことはできない。
今を去ること50年以上も前、日本列島を猛烈な熱量と速度で駆け抜けたボウリングブームという名の台風。
あのアホみたいなお祭り騒ぎをギリギリ実体験できた世代(当時小5)でよかった。
しかしそんなボウリングブームも、ほんの半年かそこらであっという間に国民から飽きられ、テレビ放映は相次いで打ち切り、全国に数多くあったボウリング場も次々に閉鎖。
ボウリングゲームに至っては昭和46年の1年間だけであらゆる玩具メーカーから競うよう20以上の機種が発売されたのに、翌昭和47年には(筆者の知る限りでは)たったの1機種。
とかく人間、特にわれら日本人は、かくも熱しやすく冷めやすい生き物なのかと、子供ごころにも愕然とさせられたのを鮮明に覚えている。