サッカーゲームジュニア
昭和40年(1965)(推定)/エポック社
これに会いたかった
いきなり個人的な思い出に浸る失礼をお許し願いたい。
昭和46年(1971)1月2日のことは50年を経た今でも鮮烈に覚えている。
この日は母と京浜東北線で東京駅に向かい、八重洲地下街の玩具店「伊勢屋(あるいは、いせ屋)」で魚雷戦ゲームと本機を、お年玉代わりに買ってもらった。
残念ながらその店はすでにないが、あまりにうれしい出来事だったのでその記憶は長く脳裏にとどまり、いまだに朱色と緑色の模様があしらわれた包装紙や店内の様子を、ぼんやりとだが思い描くことができるほどだ。
そしてその翌日、1月3日はやはり母親に連れられて川崎に出かけ、デパートか駅ビルでエルトン・ジョン「僕の歌は君の歌」をはじめ4曲入りEPを買ってもらい、母も自身が欲しかった「嘆きのインディアン」(マーク・リンゼイとレイダース)のシングルレコードを購入した。
正月、それも三が日早々、6歳年下の妹と父とは別行動で、なぜ母は2日連続で筆者だけを連れて外出したのか、思い当たるフシはあるが当サイトとは無関係なので詳述は控えよう。
しかしながら、母にはそうせざるを得なかった止むにやまれぬ事情があったのだと気がついたのはつい最近のことであり、しかもその原因は筆者自身にあった。
母は家庭の平和を守るため、筆者の機嫌を精一杯取っていたのだ。
今それを思うと両親への申しわけない気持ちが、遠い日のどこか悲し気な情景とともにこみ上げてくるのを禁じ得ない。
-以上長々と私情に溺れて甚だ恐縮至極、気を取り直して本題に入ろう。
ともあれこの日以来、筆者はすっかりこのサッカーゲームの虜になってしまった。本物のサッカーではなく、このサッカーゲームジュニアに、である。
懐かしのブリキ選手たち
当時クラスに親しい友人がほとんどいなかった筆者にとって、彼らブリキ選手は唯一の遊び相手。
それではいったい誰とこのサッカーゲームを楽しんでいたのかって?
それは近所の年下の子供たち、さぞかし親分風を吹かせたイヤなガキ大将であったろう。
ついにゴール
しかしいくら年下相手に連戦連勝を重ねても所詮は子供。たまに父と対戦すると、その都度いいようにあしらわれ、完敗を喫し続けた。
父はたとえわが子が相手でも手加減するようなことは一切なかった。
正面からの渾身のシュートも、上のパラパラ写真のように、変幻自在のゴールキーパーの鉄壁の守備の前に、ことごく跳ね返された。
そこで左の選手から右の選手へ素早くバスを回し、敵の動きを翻弄してゴールを狙うという戦術を編み出し、日々ひとりで練習を積んだ。
そしてついにある日、父に対戦を申し込み、会心のシュートでゴールを決めることができた。
そんな小さな小さな成功経験がその後の筆者の人生に役立ったとはとても思えないが、少なくともほろ苦い思い出とともに書き始めた本稿を、最後は楽しい気分で終えることができた。
まあこれで良しとするか。