野球盤

昭和33年(1958)/アポロ社

野球盤 アポロ社 全景

一卵性双生"機"

昭和33年(1958)に発売された初代野球盤、ただし発売元はエポック社ではなくアポロ社。

エポック社製野球盤とは盤面の塗装色以外には相違点がなく、本機は実質的に同社の野球盤1号機と一卵性双生児的な同一機種と考えて差し支えないだろう。

野球盤 アポロ社 盤面にアポロ社の文字

アポロ社の名を冠した初代野球盤発売が発売された経緯はおおよそ察しがつこうというものだが、エポック社はもちろん、2022年6月21日をもって同社に吸収合併された旧アポロ社Webサイト(現在はエポック社Webサイト内に統合)にも本件に関する言及が見られない以上、いくら60年以上が経過しているとはいえ、部外者が無責任な憶測で書き散らすのは、さすがにいささか穏当を欠くように思われるので、ここは自重しておく。

そのあたりの事情については、こちらの新聞記事がその一端をつまびらかにしてくれている。



野球盤 アポロ社 こけし体型の捕手と審判の木製人形
野球盤 アポロ社 こけし体型の投手木製人形

手作り野球盤

初代野球盤開発秘話に関してはエポック社公式サイトに詳しいので本稿では詳述を控えるが、端的に言うと投球/打球装置、及び捕球用穴の底部分に使われた金属を除けば、ほぼ(合板を含む)木製で、職人が1台ずつ手作りしたとのこと。

1950年代後半といえば戦後の復興にようやく目途が立ち、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」と言われ始めたものの、その普及率はまだ決して高くはなかった。

さらに言うと、この7~8年後の昭和41年(1966)においてさえ、少なくとも都内に暮らす勤め人の核家族家庭(1組の夫婦とその子供)の多くはいまだ4畳半か6畳一間のアパート暮らしで、そこには固定電話すらなかった。
(これは彼らが貧しかった故ではなく、彼らのための家族向け住宅が圧倒的に不足していたことに起因する)

筆者はこの年、都内城南地区の公立小学校に入学したが、クラス名簿のうち半数以上の生徒において、電話番号の後ろに「(呼)」が付いていたのを鮮明に覚えている。
(筆者の家は超ウルトラスーパー零細小売店舗を兼ねていたので、幸いにも独自の固定電話を備えていた)

これは「呼び出し電話」というもので、アパートの一室に住む大家に電話をして本人を呼び出してもらうというもの。
当時のアパート(そのほとんどは四畳半一間と玄関に小さな台所付き、トイレは共同、風呂は銭湯)居住者にとって、「呼び出し電話」システムはごく当たり前のことだった。

以上は本機と何ら関わりないことだが、お若い方に当時の一般的な生活環境を少しでもご理解いただくために敢えて述べてみた。

ちなみにこの数年後に神奈川・千葉・埼玉など郊外の宅地開発が一気に進み、アパート住まいの同級生たちの多くは念願のマイホームに引っ越していった。

とにかく、そんな時代である。

白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫などの家電はもちろん、固定電話でさえまだまだ一般家庭に普及していない昭和33年(1958)に、1辺が60cmにもなろうという超大型の木製野球ゲームを世に送り出した開発者の独創力と、それを支えた新商品開発への飽くなき情熱には、もうただただ敬服するよりほかにない。



野球盤 アポロ社 バックスクリーンからの眺め
野球盤 アポロ社 バックスクリーン

すべての始まり

上述の新聞記事にもある通り、開発者は自ら企画した野球盤を世に問うためにエポック社を創立した。

ということは、この野球盤1号機の発売がゴールではなく、逆にスタートであると当初から明確に位置付けていたわけで、その慧眼にこそ瞠目に値する。

現にこの翌年には早くも変化球機能を付加した2号機を発売、その後も続々と驚きの新機能を搭載した後継機種を発表していく。

その過程において、幾多の玩具製造販売業者たちとの間に熾烈な開発・販売競争が繰り広げられたであろうことは想像に難くないが、その後60余年を経た現在では、「野球盤=エポック社」と、世に広く浸透している。

そのすべてがここから始まったとを胸に刻みつつ、こうして本機を愛でていると、より深く大きな感慨が胸に迫ってくるのを禁じ得ない。

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